- ベトナムの街にフランス建築がある理由
- フランス建造物MAP
- まとめ:東洋のパリはフランスが作るだけではなかった
- 年表:その後サイゴンがホーチミンになるまで
ベトナムの街にフランス建築がある理由
1858年から約一世紀にわたって、ベトナムはフランスの植民地でした。
その間、自国の美学を貫くため、フランスは本国から船を行き来させて建築資材を運び込み、フランス建造物を多く造りました。
ドンコイ通りをシャンゼリゼ通りに、サイゴン川をセーヌ川に見たて、自分たちのフランスを再現しようとしたのです。
そのため、サイゴン(現ホーチミン)は「東洋のパリ」の呼ばれるベトナム最大の都市になりました。ここは永遠にフランスであると信じていたのでしょう。
しかし、やがてフランスは没落し、ベトナムは独立します。
ベトナムはその建造物を今も大切に守り継いでいます。
そこにはどのような歴史があったのだろうと思いを馳せずにはいられません。
一つひとつのフランス建築物について、古い順に調べました。
フランス建造物MAP
1876年:タンディン教会


SNSで人気のピンクの教会
現在も「ピンクの教会」としてSNSで人気のフォトスポットとなっている教会です。
ゴシック様式をベースに、建物表面の緻密な装飾や彫刻に「バロック様式」や尖塔や、尖頭アーチに「ロマネスク様式」の要素を取り入れた、非常に華やかで重層的なスタイルで造られています。
内部のステンドグラスも美しく装飾されています。
フランス、マルセイユから資材を運び込み、内部の祭壇はイタリア産の大理石が使われているそうです。
中心地から離れているのは何故?
ここは1区から少し離れた3区に位置しています。
理由は、当時のフランス人は「仕事は1区で、生活は並木道の美しい3区で」と考えたようです。
彼らは3区を、大使館や邸宅が並ぶ高級住宅街として開発し、信仰の場もここに設けました。
そのため、ベトナム戦争中もこのエリアは比較的落ち着いていました。
現在のような鮮やかなピンク色に塗り替えられたのは、1957年のことです。当初は白っぽい色の教会でした。
HP / Googleマップ/午前8時00分~11時00分、午後14時00分~17時00分 /

1880年:サイゴン大聖堂(聖母マリア教会)


1877年に起工し、1880年に完成したこの大聖堂は、ネオ·ゴシック様式。
フランスの建築家ジュール·ブーラールによって設計されました。
1895年には2つの尖塔(高さ約58メートル)が追加されました。
現在は修繕工事中です。
こだわりの赤レンガ

すべての赤レンガはマルセイユから船で運び込まれ、ステンドグラスもフランスのシャルトルから運ばれました。
このレンガは現在でも塗り直しをせず、当時の色のまま。マルセイユの土を高温で焼き上げたレンガは非常に密度が高く、コケが生えにくいため、100年以上経っても鮮やかな赤色を保っています。
完成当時の様子
完成したこの尖塔に設置された6つの巨大な鐘が初めて鳴り響いたとき、サイゴンに住むフランス人たちは涙を流して喜んだと言われています。
それは、自分たちの文化、信仰、そして「秩序」が根付いたことを告げるファンファーレだったからです。
逆に、当時のベトナム人にとっては、この鐘の音は「異国の支配者」の到来を物理的に、そして精神的に叩き込むものだったそうです。
ベトナム戦争中も、大聖堂は特に「聖域」として扱われました。破壊することは世界中のキリスト教国を敵に回すことを意味したからです。前庭に立つ聖母マリア像は、地元の人々にとって長年の祈りの対象であり続けています。

1880年:ホテル·コンチネンタル·サイゴン

フランス本国と変わらぬホテルを
ホーチミンに現存する最古のホテルです。フランス人のレンガ製造業者ピエール・カゾー(Pierre Cazeau)によって建てられました。
カゾーは、マルセイユから運んできた自社の最高級レンガを使い、「フランス人による、フランス人のための、フランス本国と変わらぬ安らぎ」を提供しようとしました。
当時、船で数ヶ月かけてサイゴンにたどり着いたフランス人官僚や冒険家にとって聖域だったそうです。
建築様式は、フランス植民地様式という分類ですが、建物全体がシンメトリーなことと、古典的な装飾が施された正面がネオ・ルネサンス様式の影響を受けています。
高い天井と厚い壁、広い回廊(ベランダ)はコロニアル・エッセンスが含まれています。
クーラーのない時代、フランス人たちは熱帯の暑さを凌ぐために天井を高くし、厚い壁と深い回廊を作りました。白い木製の鎧戸(シャッター)は今も残っています。
オペラハウスの斜め向かいという立地がまさに「フランス人社会の中心地」を物語っています。
映画「インドシナ」のロケ地にもなりました。
現在も高級ホテルとして営業しており、立地は観光の面から見ても最高の場所です。
宿泊者以外もカフェを利用できます。

1890年:ホーチミン市博物館(旧ザーロン宮殿)

かつてコーチシナ総督官邸、最高裁判所として使われており、同名の通りに面していることから非公式にザーロン宮殿と呼ばれることも多い。
フランス人建築家アルフレッド・フルーによって設計され、1885年から1890年にかけてゴシック様式で建設された。屋根は東アジア風の趣がある。
当初は「商業博物館」として、ベトナム南部の特産品を展示するために建てられました。しかし、完成した途端にフランス人の考えが変わります。
当時のフランスの副総督が「ここを私の家(官邸)にしよう!」と言い出し、結局、完成直後から「総督官邸」として使われることになりました。
正面の最上部には、商業の神様(ヘルメス)の頭像や、商売を象徴するデザインが刻まれています。
2階のバルコニーの窓枠や手すりのアイアンワーク(鉄細工)は、サイゴンでも屈指の美しさを誇ります。
1945年の第二次世界大戦末期、日本軍がクーデターでフランス勢力を追い出した際、この建物は「日本軍の司令官の官邸」としても使われました。
地下にはトンネルが作られていた
この建物の最大の秘密は、地下に隠された「脱出用トンネル」です。
戦時中、大統領や高官たちが空爆から避難したり、軍の司令部と極秘に連絡を取ったりするために、地下に強固な避難用トンネルが掘られました。
約1kmほど離れた場所にある大統領官邸まで、政府機関や軍の司令部ともつながっていました。
現在はすべて分断され、閉鎖されていますが、トンネルの一部を整備して展示エリアとした「ごく限られた範囲」ですが見学することが出来ます。

1891年:サイゴン中央郵便局

エッフェル塔の設計士が設計
1886年から1891年にかけて建設され、パリのエッフェル塔を設計したギュスターヴ·エッフェルが設計に関わったとも伝えられています。
内部の高いアーチ型の天井を支えているのは鉄骨です。鉄骨剥き出しの建築は「工場みたいだ」と批判されることもありました。しかしエッフェルは、あえてそれを見せることで、フランスの最新技術をアジアに見せつけました。
左右の壁には建設当時のホーチミン市周辺の地図が今も描かれています。
右側には「1892年のサイゴンとその周辺」が描かれています。
左側には「南ベトナムとカンボジアの電信網」が描かれています。1880年代から90年代にかけてフランスは海底ケーブルを敷設し、本国と瞬時に通信できるようにしました。その地図が描かれています。
現在も現役の郵便局として機能しており、旅人がホーチミンから絵はがきを出す場所としても人気です。
Googleマップ / 営業時間7時30分~18時00分 /

1899年:オペラハウス(ホーチミン歌劇場)

1898年に完成したバロック様式の劇場で、上部の天使像、エントランス両脇の女神像はパリの劇場を思わせます。当時ここに立ち入れたのは、フランス人と一部の上流階級に限られていました。
装飾を一度取り、また復元
実はこの彫刻は、完成から数十年後の1943年に一度のっぺりした姿に削り取られ、1998年のサイゴン創設300周年記念の際に当初の姿に復元されました。
「フランスの栄光」を誇示するために付けた装飾を、自分たちの美意識の変化で壊してしまう——ここにも、フランス人の建築に対する並々ならぬ執着と、「常に洗練されていたい」というプライドが見え隠れするエピソードです。
ベトナム戦争中、ここはオペラハウスではなく「南ベトナム共和国の国会議事堂」として使われました。音楽が消えた劇場には、代わりに政治家たちの激しい議論が響き渡っていたのです。
1975年の終戦後、再び劇場として機能を取り戻し、現在はバレエや音楽コンサート、「アオ·ショー」などが上演されています。

1908年:ホーチミン人民委員会庁舎

1908年から1909年にかけて建設された、グエンフエ通り沿いにひと際目を引く、ルネッサンス様式の外観が特徴的な建物です。
建物正面を飾る精巧なレリーフや、内部の豪華なシャンデリアと装飾的な階段は、パリ市庁舎を参考に設計されました。資材はもちろん、彫刻家や画家までフランスから呼び寄せ、パリの空気そのものを造ろうとしたそうです。
サイゴン川まで見通せた?!
庁舎の正面にあるグエンフエ通り(旧シャルネ通り)は、もともと運河でした。フランス人はここを埋め立てて大通りにする際、「庁舎の正面玄関からまっすぐサイゴン川まで見通せる」ように設計しました。
ベトナム戦争中も驚くほど無傷で残りました。「破壊するより勝利して自分たちのものにしたい」という気持ちにさせる美しさがあったそうです。
現在はホーチミン人民委員会庁舎として使用されています。
夜間はライトアップが素晴らしく、前庭のホー·チ·ミン像とともに市民に愛されるシンボルとなっています。

Googleマップ / HP / 内部の観光は行っていません

1925年:マジェスティックホテル

1925年に開業した、ドンコイ通りの南端でサイゴン川を望む5つ星ホテルです。
当時流行したアールデコ様式。大理石の床や豪華なシャンデリアなど、当時フランス本国から取り寄せた最高級の調度品で飾られました。
植民地時代はフランス人の社交場として栄え、第二次世界大戦中は日本軍の兵舎としても使用されました。
セーヌ川のほとりをイメージ
ホテルが面しているサイゴン川は、当時、貿易船が行き交う経済の大動脈でした。
建設者である華僑の富豪ホイ・ボン・ホアは、この川沿いにホテルを建てることで、パリのセーヌ川沿いにあるような洗練されたリゾート空間をサイゴンに再現しようとしました。
現在はベトナム人経営の高級ホテルとして、世界中のVIPに愛されています。サイゴン川を眺めるテラスでのひとときは、旅の思い出に残る体験になるでしょう。

1927年:レックスホテル(Rex Hotel)

元は高級フランス車のショールーム
建設されたのはフランス統治時代の末期にあたる1927年のこと。フランス人建築家によって、当時のサイゴンで最もモダンな2階建ての鉄筋コンクリート建築として設計されました。
当初の名前は「ベニエ・オート・ブラザーズ)」といい、フランス製の高級自動車を販売・展示するショールーム兼ガレージとして誕生しました。
ホテルへリノベーション
「レックスホテル」として歩み始めたのは、フランスが去った後の1959年頃。
ベトナム人の実業家夫妻が買い取り、近代的なホテルへとリノベーションしました。
ベトナム戦争中、ホテルは米軍に接収され、文化広報局(JUSPAO)が置かれました。毎日午後5時、このホテルの会議室では米軍による公式記者会見が行われました。戦火の中でここが破壊されなかったのは、世界中の特派員が集まる「情報の聖域」だったからです。

1929年:ベトナム歴史博物館(旧ルイ・フィノー博物館)
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サイゴン動物園・植物園(1865年開設)という、フランス人が手掛けた公園の一角に建っています。
外観が他のフランス建造物とは異なるのが特徴です。
当時は「ブランシャール・ド・ラ・ブロス博物館」として設立されました。
フランス領インドシナの総督であったアレクサンドル・ヴァレンヌによって命名されたものです。
フランスがインドシナ建築様式を取り入れた貴重な建物
注目すべきは、フランスの様式だけでなく、「インドシナ建築様式」が取り入れられている点です。
フランス人建築家が、ベトナムの伝統的な寺院建築の要素(反り返った屋根の形や、装飾的な瓦など)を巧みに取り入れました。
「フランスの技術」で「ベトナムの伝統」を融合して設計したのです。
彼らはベトナム建築を認め歩みよることで、支配に対する抵抗感を和らげようとしたと言われています。
Googleマップ / 営業時間 8時00分~11時30分・13時00分~17時00分(月曜定休)

彼らがベトナムのデザインを取り入れたのは、単なる上辺だけのポーズでした。結局、彼らは自分たちだけの社交界に浸り、ベトナム人とは決して同じ地平に立とうとしなかったのです。

1930年:グランド ホテル サイゴン
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「サイゴン・カフェ」を併設した高級ホテルとしてオープンしました。
コロニアル・バロック様式を基調としています。
コロニアル・バロック様式を基調としています。
ドンコイ通り(当時のカティナ通り)の角地に位置しているため、角が重厚な塔のようなデザインになっており、街のランドマークとして存在していました。
当時、この通りは、パリのシャンゼリゼ通りを意識し、フランスの街並みが作られました。調度品の多くは、フランス本国の美意識を強く反映していました。多くのフランス人商人や官僚たちが、ここで夜な夜なシャンパンを傾け、遠い故郷の文化をこの熱帯の地で再現しようを意識し、洗練されたフランスの街並みが作られました。調度品の多くは、フランス本国の美意識を強く反映していました。多くのフランス人商人や官僚たちが、ここで夜な夜なシャンパンを傾け、遠い故郷の文化をこの熱帯の地で再現しようとしていました。

このようなことからも「ベトナム歴史博物館」の建設に「ベトナム様式」を取り入れたことがポーズだったとわかります。
現在の姿になったのは2000年代以降、、後部に新しい高層タワー部分を増築するため大改修をました。するため大改修をしました。ホテルの部屋数を増や、屋上はルーフトップバーになっていし、す屋上はルーフトップバーになっています。

1934年:ホーチミン市立美術館
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華人実業家のために作られたフランス建造物
この建物は、20世紀前半にサイゴンで活躍した裕福で有名な華人実業家、ホア・ボン・ホア氏(通称ホアおじさん)のために造られました。
1929年、ホア叔父は、東アジアとヨーロッパの建築様式が見事に融合した壮麗な建物を、フランス人建築家リベラ氏に設計を依頼した。建物は1934年に完成した。
これは、「我々はあなたたちの支配秩序に完全に適合している、協力的な存在である」という強い政治的パフォーマンスでもありました。
1987年、ホーチミン市美術館となりましたが、展示品が著しく不足していたため、美術館が正式に開館したのは1992年になってからのことでした。
Googleマップ/ 参考サイト / 大人入場料:30,000d
ベトナムの勢力が増してくる
この頃から、5区や6区などで着実に経済力をつけた人々が、成功を収めていたのです。
フランス側は、その資本力に頼らざるを得なくなっていきました。
こうした共依存関係の中で、フランスの支配力は徐々に弱体化していったのです。

まとめ:東洋のパリはフランスが作るだけではなかった
「フランス風」が標準に
1920〜30年代のホーチミンでは、フランス様式の建築が「富と成功の象徴」として定着していました。そのため、ベトナムの商人や実業家が新しい自社ビルや邸宅を建てる際、フランスの様式を取り入れることは、自然な選択でした。
フランス人が建てた「官庁や教会」が街の骨格を作り、その隙間を埋めるようにベトナム人資本家たちが建てたフランス風の「商館や個人ビル」が街の厚みを作りました。これらが混ざり合って、現代に残る「東洋のパリ」が完成されていったのです。

年表:その後サイゴンがホーチミンになるまで
この後、フランスは勢力が衰え、サイゴンは「ホーチミン」へと改称されます。
| 年代 | 出来事 | 街の様子への影響 |
| 1940年 | 日本軍の仏印進駐(第二次世界大戦) | フランスの支配力が弱まり、日本軍が街に姿を現す。 |
| 1945年 | 日本軍の明号作戦・ベトナム独立宣言 | 日本軍がフランス軍を排除。終戦後、ホー・チ・ミンが独立を宣言。 |
| 1946年 | 第一次インドシナ戦争 勃発 | 再支配を目論むフランスと、独立を目指すベトナムの激突。 |
| 1954年 | ディエンビエンフーの戦い・フランス撤退 | フランス軍が敗北。フランス領インドシナ連邦が崩壊し、フランス人が去る。 |
| 1955年 | ベトナム共和国(南ベトナム)樹立 | アメリカの支援を受けた政府が1区の旧フランス建築を接収。 |
| 1960年代 | ベトナム戦争 本格化(アメリカ軍介入) | 1区のホテルは米軍将校や特派員で溢れ、情報の拠点となる。 |
| 1975年 | サイゴン陥落(4月30日) | ベトナム戦争終結。 サイゴンは「ホーチミン市」へと改称される。 |








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