ベトナムの街にフランス建築がある理由
1858年から約一世紀にわたって、ベトナムはフランスの植民地でした。
その間、自国の美学を貫くため、フランスは本国から船を行き来させて建築資材を運び込み、フランス建造物を多く造りました。
ドンコイ通りをシャンゼリゼ通りに、サイゴン川をセーヌ川に見たて、自分たちのフランスを再現しようとしたのです。
そのため、サイゴン(現ホーチミン)は「東洋のパリ」と呼ばれるベトナム最大の都市になりました。ここは永遠にフランスであると信じていたのでしょう。
しかし、やがてフランスは没落し、ベトナムは独立します。ベトナムはその建造物を今も大切に守り継いでいます。
フランス建造物 MAP
1876年〜1934年に建設された12の建造物を、古い順にご紹介します。

SNSで人気のピンクの教会
現在も「ピンクの教会」としてSNSで人気のフォトスポットとなっている教会です。ゴシック様式をベースに、建物表面の緻密な装飾や彫刻にバロック様式や、尖塔・尖頭アーチにロマネスク様式の要素を取り入れた、非常に華やかで重層的なスタイルで造られています。内部のステンドグラスも美しく装飾されています。
フランス・マルセイユから資材を運び込み、内部の祭壇はイタリア産の大理石が使われているそうです。
中心地から離れているのは何故?
ここは1区から少し離れた3区に位置しています。理由は、当時のフランス人は「仕事は1区で、生活は並木道の美しい3区で」と考えたようです。彼らは3区を、大使館や邸宅が並ぶ高級住宅街として開発し、信仰の場もここに設けました。そのため、ベトナム戦争中もこのエリアは比較的落ち着いていました。
現在のような鮮やかなピンク色に塗り替えられたのは、1957年のことです。当初は白っぽい色の教会でした。

※ 2026年は修繕工事中です
1877年に起工し、1880年に完成したこの大聖堂はネオ・ゴシック様式。フランスの建築家ジュール・ブーラールによって設計されました。1895年には2つの尖塔(高さ約58メートル)が追加されました。
こだわりの赤レンガ
すべての赤レンガはマルセイユから船で運び込まれ、ステンドグラスもフランスのシャルトルから運ばれました。このレンガは現在でも塗り直しをせず、当時の色のまま。マルセイユの土を高温で焼き上げたレンガは非常に密度が高く、コケが生えにくいため、100年以上経っても鮮やかな赤色を保っています。
完成当時の様子
ベトナム戦争中も、大聖堂は特に「聖域」として扱われました。破壊することは世界中のキリスト教国を敵に回すことを意味したからです。

出典:タビグラフHP
フランス本国と変わらぬホテルを
ホーチミンに現存する最古のホテルです。フランス人のレンガ製造業者ピエール・カゾーによって建てられました。カゾーは、マルセイユから運んできた自社の最高級レンガを使い、「フランス人による、フランス人のための、フランス本国と変わらぬ安らぎ」を提供しようとしました。当時、船で数ヶ月かけてサイゴンにたどり着いたフランス人官僚や冒険家にとっての聖域でした。
建築様式はフランス植民地様式ですが、古典的な装飾が施された正面がネオ・ルネサンス様式の影響を受けています。クーラーのない時代、フランス人たちは熱帯の暑さを凌ぐために天井を高くし、厚い壁と深い回廊を作りました。白い木製の鎧戸(シャッター)は今も残っています。
映画「インドシナ」のロケ地にもなりました。現在も高級ホテルとして営業しており、宿泊者以外もカフェを利用できます。

出典:hcmc-museum.edu.vn
かつてコーチシナ総督官邸・最高裁判所として使われていた建物。フランス人建築家アルフレッド・フルーによって設計され、1885年から1890年にかけてゴシック様式で建設されました。屋根は東アジア風の趣があります。
当初は「商業博物館」として建てられましたが、完成した途端に当時の副総督が「ここを私の家(官邸)にしよう!」と言い出し、完成直後から「総督官邸」として使われることになりました。
1945年の第二次世界大戦末期、日本軍がクーデターでフランス勢力を追い出した際、この建物は「日本軍の司令官の官邸」としても使われました。
地下にはトンネルが作られていた

エッフェル塔の設計士が設計
1886年から1891年にかけて建設され、パリのエッフェル塔を設計したギュスターヴ・エッフェルが設計に関わったとも伝えられています。
内部の高いアーチ型の天井を支えているのは鉄骨です。鉄骨剥き出しの建築は「工場みたいだ」と批判されることもありましたが、エッフェルは、あえてそれを見せることで、フランスの最新技術をアジアに見せつけました。
左右の壁には建設当時のホーチミン市周辺の地図が今も描かれています。右側には「1892年のサイゴンとその周辺」、左側には「南ベトナムとカンボジアの電信網」。1880年代から90年代にかけてフランスは海底ケーブルを敷設し、本国と瞬時に通信できるようにしました。
現在も現役の郵便局として機能しており、旅人がホーチミンから絵はがきを出す場所としても人気です。

1898年に完成したバロック様式の劇場で、上部の天使像、エントランス両脇の女神像はパリの劇場を思わせます。当時ここに立ち入れたのは、フランス人と一部の上流階級に限られていました。
装飾を一度取り、また復元
ベトナム戦争中、ここは「南ベトナム共和国の国会議事堂」として使われました。1975年の終戦後、再び劇場として機能を取り戻し、現在はバレエや音楽コンサート、「アオ・ショー」などが上演されています。

1908年から1909年にかけて建設された、グエンフエ通り沿いにひと際目を引くルネッサンス様式の建物です。建物正面を飾る精巧なレリーフや、内部の豪華なシャンデリアと装飾的な階段は、パリ市庁舎を参考に設計されました。資材はもちろん、彫刻家や画家までフランスから呼び寄せ、パリの空気そのものを造ろうとしたそうです。
サイゴン川まで見通せた?!
現在はホーチミン人民委員会庁舎として使用されています。夜間はライトアップが素晴らしく、前庭のホー・チ・ミン像とともに市民に愛されるシンボルとなっています。

出典:マジェスティックホテルHP
1925年に開業した、ドンコイ通りの南端でサイゴン川を望む5つ星ホテルです。当時流行したアールデコ様式。大理石の床や豪華なシャンデリアなど、当時フランス本国から取り寄せた最高級の調度品で飾られました。植民地時代はフランス人の社交場として栄え、第二次世界大戦中は日本軍の兵舎としても使用されました。
セーヌ川のほとりをイメージ
建設者である華僑の富豪ホイ・ボン・ホアは、サイゴン川沿いにホテルを建てることで、パリのセーヌ川沿いにあるような洗練されたリゾート空間をサイゴンに再現しようとしました。現在はベトナム人経営の高級ホテルとして、世界中のVIPに愛されています。

出典:REX HOTEL HP
元は高級フランス車のショールーム
建設されたのはフランス統治時代の末期にあたる1927年。フランス人建築家によって、当時のサイゴンで最もモダンな2階建ての鉄筋コンクリート建築として設計されました。当初の名前は「ベニエ・オート・ブラザーズ」といい、フランス製の高級自動車を販売・展示するショールーム兼ガレージとして誕生しました。
ホテルへリノベーション
フランスが去った後の1959年頃、ベトナム人の実業家夫妻が買い取り、近代的なホテルへとリノベーションしました。
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出典:viet jo
サイゴン動物園・植物園(1865年開設)という、フランス人が手掛けた公園の一角に建っています。当時は「ブランシャール・ド・ラ・ブロス博物館」として設立されました。
フランスがインドシナ建築様式を取り入れた貴重な建物
注目すべきは、フランスの様式だけでなく、「インドシナ建築様式」が取り入れられている点です。フランス人建築家が、ベトナムの伝統的な寺院建築の要素(反り返った屋根の形や、装飾的な瓦など)を巧みに取り入れ、「フランスの技術」で「ベトナムの伝統」を融合して設計したのです。

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出典:グランド ホテル サイゴンHP
「サイゴン・カフェ」を併設した高級ホテルとしてオープンしました。コロニアル・バロック様式を基調としています。ドンコイ通り(当時のカティナ通り)の角地に位置しているため、角が重厚な塔のようなデザインになっており、街のランドマークとして存在していました。
当時この通りは、パリのシャンゼリゼ通りを意識し、フランスの街並みが作られました。多くのフランス人商人や官僚たちが、ここで夜な夜なシャンパンを傾け、遠い故郷の文化をこの熱帯の地で再現しようとしていました。

現在の姿になったのは2000年代以降、後部に新しい高層タワー部分を増築するため大改修を行いました。ホテルの部屋数を増やし、屋上はルーフトップバーになっています。
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出典:ホーチミン市立美術館
華人実業家のために作られたフランス建造物
この建物は、20世紀前半にサイゴンで活躍した裕福で有名な華人実業家、ホア・ボン・ホア氏(通称ホアおじさん)のために造られました。1929年、ホア叔父は東アジアとヨーロッパの建築様式が見事に融合した壮麗な建物を、フランス人建築家リベラ氏に設計を依頼し、1934年に完成しました。
これは、「我々はあなたたちの支配秩序に完全に適合している、協力的な存在である」という強い政治的パフォーマンスでもありました。
1987年にホーチミン市美術館となりましたが、展示品が著しく不足していたため、美術館が正式に開館したのは1992年になってからのことでした。
ベトナムの勢力が増してくる
この頃から、5区や6区などで着実に経済力をつけた人々が、成功を収めていたのです。フランス側は、その資本力に頼らざるを得なくなっていきました。こうした共依存関係の中で、フランスの支配力は徐々に弱体化していったのです。
まとめ:東洋のパリはフランスが作るだけではなかった
「フランス風」が標準に
1920〜30年代のホーチミンでは、フランス様式の建築が「富と成功の象徴」として定着していました。そのため、ベトナムの商人や実業家が新しい自社ビルや邸宅を建てる際、フランスの様式を取り入れることは自然な選択でした。
フランス人が建てた「官庁や教会」が街の骨格を作り、その隙間を埋めるようにベトナム人資本家たちが建てたフランス風の「商館や個人ビル」が街の厚みを作りました。これらが混ざり合って、現代に残る「東洋のパリ」が完成されていったのです。
📌 この記事のポイント
- ✦フランス植民地時代(1858年〜)に建てられた建造物が今も残っている
- ✦資材はマルセイユから船で運び込み、本国と変わらぬ「フランス」を再現しようとした
- ✦ベトナム戦争中も多くが「聖域」や「情報拠点」として生き残った
- ✦1920〜30年代にはベトナム人資本家もフランス様式を取り入れ始め、「東洋のパリ」が完成された
年表:その後サイゴンがホーチミンになるまで
この後、フランスは勢力が衰え、サイゴンは「ホーチミン」へと改称されます。
フランスの支配力が弱まり、日本軍が街に姿を現す。
日本軍がフランス軍を排除。終戦後、ホー・チ・ミンが独立を宣言。
再支配を目論むフランスと、独立を目指すベトナムの激突。
フランス軍が敗北。フランス領インドシナ連邦が崩壊し、フランス人が去る。
アメリカの支援を受けた政府が1区の旧フランス建築を接収。
1区のホテルは米軍将校や特派員で溢れ、情報の拠点となる。
サイゴンは「ホーチミン市」へと改称される。









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